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古い夢から覚めるとき

古い夢から覚めるとき

親愛なるみなさまへ

齊藤つうりです。
コロナウィルスの影響をうけ、全世界が今まさに大きな変化の真っ只中に飲み込まれています。

いま起こっていることは、100年ほどに一度規模で起こる「疫病」にあたります。人類はその都度、これらの疫病を乗り越え、免疫を獲得し、あるいは変化に適応してきました。
長期的な視点でとらえれば、私たち人類は必ずコロナウィルスを「含んで超える」ことになるでしょう。そしてもちろん多くの犠牲を生むものの、全体としては「必ずこの出来事を乗り越えられる」ということになります。

しかし今回起こっている問題の本質はコロナウィルスによる人口の減少や健康被害ではありません。
それはきっかけにすぎないのです。

私たちが体験していることは「次世代の人類のモデルケースへの移行」です。
環境問題、エネルギー源の問題、人口爆発、資本主義による極端な格差社会。

グローバル化された「経済」は、一度発動したら止めることのできないシステムです。利益を生み出し続けないと、不景気というモンスターが登場し、世界を滅ぼしてしまう。そのために現代で生産に関わる全ての人の目的はたったひとつ。

「この経済システムをストップしないこと」

経済システムのストップは人類の死を意味することだからです。
前回の疫病がスペイン風邪による猛威の際には、まだ世界は現代のようにはグローバル化されておらず、経済システムはこれほどまでに発達はしていませんでした。
たとえばわかりやすいところで、電気・水道・ガスといったものが失われたとしても、自然と一体化しているために、持続可能な社会形態を保っていた地域や国も存在していたことでしょう。

しかし現代では、それら電気・水道・ガスといったライフライン、また多種多様なビジネスは経済が回ることを前提に組み立てられています。
そのために、経済がストップするということは、そのまま全体が命を失うことと直結しているといえます。

100年前も経済はもちろんありましたし、それ以前の社会も経済を基礎に作られていたことは間違いありません。
しかしグローバル化によって、高度に細分化された生産やサービスを持った結果、2020年の現在は実は「人類歴史上最もお金という単位が多い」時期なのです。
つまり実際の生産やサービスから生み出された「余剰エネルギーとしての経済」の頂点にある時期といえます(しかし富裕層が所有している割合が多く生産層はそれが見えづらい現状です)。

現在コロナウィルスの影響によって起こっている問題の本質は「疫病による被害がもたらした、グローバル経済システムのストップ」であり、人類はこの状態を過去に体験したことはありません。
グローバル化された経済システムは止めることができません。止めることは死を意味するからです。
そのため生産層にいる人間の目的は、「ただシステムを回し続けること」のみとなり、環境も、人間関係も、自分自身の健康も、心のありようもすべてをかなぐり捨てていかなければなりません。
研究者が環境に対して警鐘をならし、自然と共存してきた部族が叫び、身近な人が自殺し、大切なこころが失われていく。
けれど「回し続けること」以外は何もできない。
それが現代の経済システムに関わるすべての人が体験するリアルだったのではないでしょうか?

それが限界を迎えていることは、誰もが気がついていたはずです。
けれどどうやってそこから降りたらよいのでしょう?
経済システムの歯車は止めることができないのです。

自らを壊すものであると知り、誰もがダメージをうけながらも、それを止めることができない様子は、狂気そのものといえるかもしれません。
しかし何度も言うように、その止め方は誰にもわかりませんでした。

スティーブン・ホーキング博士は人類が次世代のモデルケースを見出さない限り、その人類の存続できる期間はあと100年ほどだと伝え、亡くなっていきましした。

さて。今回のコロナウィルスによって、起こったことは「経済システムのストップ」です。

各都市のブロックダウン。工業ラインのストップ。最低限のインフラを残し、「回し続けるためのシステム」の多くがストップしました。
100年前の地球ならば、ここまですばやくウィルスは世界中をめぐることはなかったでしょう。
そして経済の被害もこれほどまでに甚大ではなかったでしょう。
経済という点でとらえたときに、まさに史上初の大恐慌の時代へと人類は突入しています。
最も私たちが恐れていた「経済システムの死」がやってきたのです。
その点だけでとらえたとき、多くの人が自分自身の死と同様の印象をうけることでしょう。
「金がなくなるということは食べていけなくなることだ」と。

そして人間たちの経済被害をよそに、地球の環境は回復を遂げつつあります。

インド・中国の大気は澄み渡り、イタリアの水質は改善され、そして工場や乗り物が生み出す振動や音が激減したために、地球全体の騒音被害は3分の1までに減少したというデータがあります。北米では原油価格の崩落のために、油田の運行までもが止まりました。
いま私たちはまさに全世界で同時に起こる変化を体験しています。

いま人類の集合意識はこれまでみていた「経済が自分自身である」という夢から目覚めつつあるといっても過言ではないでしょう。
かつてフランス革命がおこったときに、ルイ16世がギロチンにかけられ、首が落ちた際に、貴族たちは太陽の象徴である王が死んだなら、二度と朝日は登らないはずと恐れ慄いたといいます。しかしもちろん翌日も太陽は蘇りました。

私たちは「経済が止まったら、生きることができない」と信じています。
けれどやはり今日も太陽は昇り、夜空の星は変わらず輝いています。

経済学者は「景気と自殺者数は比例する」と説き、これからの大恐慌でとてつもない数の自殺者が生まれる、と言います。
しかしこれまでの自殺者は本当に経済の問題そのもので自らの死を決めたのでしょうか?

ひょっとしたら「回し続けること」の意味を探すことに疲れ、生きることの意味そのものを見出すことが難しくなってしまったのかもしれません。
(もちろん現在の個々人の経済が非常に深刻であることは疑う余地もありません。ヨーロッパ諸国がそうしているように、いますぐに日本の政府は保証としての金額を全国民に配布べきですし、そうなるように最大限に私たちは働きかけなければなりません)

いま人類の集合意識は大きな変化を遂げようとしています。
今回のコロナウィルスによって証明されたことのひとつに、グローバル化された現代では、世界のどこかの地域、あるいはたった一人の人に起こったことは、人類全体で共有される、ということです。
逆をいえば、全体で起こっていることは、一人に起こったことをあらわしていると言えます。

仏教の華厳経では「一即他。多即一(ひとつは全体としてあらわれ、全体はひとつに集約される)」と説きます。
もちろんこれは世界の構造の本質をとらえた言葉ではありますが、いまの世界の状態を最もよく表した言葉であるといえるかもしれません。

そしてまた仏教では、菩薩とは、自分一人を救うことで何かを解決したととらえるのではなく、関わる人、目に映る人すべてを救うという修行を自分自身に課した僧侶のことを言います。

これらの仏教の理論とは「よりよく生きるには」といったレベルでとらえ、社会全体で実践していく必要があるとまでは、到底感じていなかったことでしょう。

しかし今回のコロナウィルスの件によって露呈した現代の弱点とは、経済を上昇させることの優位性が高いために、各国の情報の開示をためらったことによる感染拡大であり、また人命よりも経済システムを止めることの恐怖が勝るために、健康被害よりも、国の権威と経済を優先させた結果にあります。

 『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、“新型コロナウィルス”についてTIME誌に緊急寄稿にて、このように伝えています。

「今回の危機の現段階では、決定的な戦いは人類そのものの中で起こる。もしこの感染症の大流行が人間の間の不和と不信を募らせるなら、それはこのウイルスにとって最大の勝利となるだろう。人間どうしが争えば、ウイルスは倍増する。対照的に、もしこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、それは新型コロナウイルスに対する勝利だけではなく、将来現れるあらゆる病原体に対しての勝利ともなることだろう」引用元http://web.kawade.co.jp/bungei/3455/?fbclid=IwAR04AtuVVlmwQzMtZii91dyTUnUUyjukgBJmE0dUKiTbUcnhgYSSzNMQBAM

僧侶として私が言えることは

「全体はひとつであり、ひとつは全体としてあらわれる」

「目の前の人は自分自身である」

理論や理想として知られていたこれらのことを、あらゆるすべての点で実践していくことを、世界全体が問われているように思えてなりません。

ごくシンプルにいえば

「世界はひとつ」

なのです。

しかしそれはかつてのような社会主義や共産主義が理想に戻るということを意味するものではありません。
そしてまた個を失った全体の部品としての人間が、全体を作り上げるというモデルもありません。

仏教の菩薩観に根差した次世代の社会のモデルケースとは以下のようなものです。

・世界全体が一つであることを共通の認識とする
・ひとりの人間の影響は全体におよび、また全体の影響は、ひとりの人間にあらわれる
・目の前の人間の内側の弱さ・過ちを、自分の内側の現れとして各個人が認識する
・目の前の人間の個性化と本質的な生きがいをサポートすることを、あらゆるコミュニケーションの前提とする

これらの指標はある意味では仏教を日本の中心に据えていた時代の感覚を私たちに呼び起こすものかもしれません。
仏教とグローバリズムは非常に親和性が高いのです。
その理由は、仏教が人間の意識の発達に中心を置き、宗教としてではなく、人間本来のありようの段階を説いたものであるからとだといえるでしょう。

トランスパーソナル心理学では、前期自我、後期自我という段階を設け、他者の存在を影としてどのように認識するのか、というポイントにその分岐があるとしています。
ごくシンプルに言えば、トラブルが起こったときに、一方的に相手を責め、自分と切り離すとき、私たちは自分自身の影を認識していないと言えます。
しかし自分のなかの弱さや罪悪感を認めないために、他者にそれを投影しているにすぎないと、自分自身で認識するとき、影の存在を自らのなかに認めているといえます。

私たちにいま必要な意識の転換点はまさにこの点にあります。
経済システムを回し続ける存在であるという人間の認識から、世界全体がつながり合い、互いにサポートする存在が人間であるという認識へと転換すること。
その認識を世界の共通認識としたとき、私たち人類は今回発生したコロナウィルスの問題とは、大きな痛みを伴いながらも、結果的に新しいモデルケースへの移行であったことをのちに悟ることでしょう。

仏教では、すべては縁によって結ばれており、自らと関わり合いのないものなど存在しないと説きます。

いままさに人類全体が関わりを持っているこのウィルスによる問題提起を、それぞれがどのように扱い、行動していくのか。

その意識へとはいるとき、私たちはその場のなかでひとつの意識を獲得することでしょう。

それを行動として表すならこういうことです。

もしあなたが人よりも何かを持っているなら与えること。
もしあなたが本当に困っているならプライドを捨て、ヘルプを出すこと。

そして何か困難に直面したら、こう考えることです。

私たちは全体としてひとつであるということ。
問題とは常に新しい道を指し示すものであるということ。
その先にまったく新しい価値が待っているということ。

いま私たちは古い夢から目を覚ます時なのでしょう。

一般社団法人ブッダプログラムとして、この人類の大きなシフトへ向かって、私たちがいまできることを最大限に提供していきます。

 

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